夜の張り紙

2023年12月4日(月)

ある朝、旦那さんが新聞の上に広告をのせて、机に置いた。一面が隠してある。ひどい写真が載っている、と言った。ケガをして泣いている小さな子どもが映る写真だった。数日後、いい写真やなあ、と言ったのは、同じように廃墟となったガザの街に、青年が子どもを抱きかかえ立つ写真。理由をたずねると、いい顔をしている、と言った。下を向いているけれど、青年は、穏やかな優しい表情をしている。

いつかの新聞に載っていた「透明な横顔」と題された写真が気になっていた。映画「鉛筆と銃」を紹介する記事。それは、アフガニスタンの英雄、マスードという人らしかった。写真家の長倉広海さんが、こんなふうに語っていた。死がすぐそこにある環境で、彼はなぜ、すがすがしく穏やかでいられたのか。映画を観て、その理由が少し分かった気がする。その人の傍らにはいつでも本があった。草むらに寝転がり、夜には、小さな灯りをともし、戦闘の合間をぬって、読書をする姿があった。

ガザに暮らす人がこう言った。「体験していることを説明する言葉がない」。語ることができる言葉、それから語ることができない言葉がある。それもやっぱり、無言の言葉だ。

人を救うのは、言葉である。医療でも、宗教でもなく、言葉である。そのような文章を読んだ。池田晶子さんが書いたものだった。その意味はまだはっきりと分からないけれど、ふるえるように読んだ。

言葉について、文字や言語であるより、もっと大きなものとして考えた、井筒さんのことも知った。その人は、平和というのは、対話の彼方にあるのではなく、彼方での対話にある、と言った。彼方というのは、今生きる人間どうしではない、もっと長い歴史をとらえる目で見た、先人たちとの対話と思う。民族や宗教、違いがあるというのは、起源はひとつというのと同じなのだった。マスードは、はるか遠くにいる人といつでも対話していたのだろうか。

文章を読んでいると、あの人やあの人が立ち現われ、語りかけてくる。時空をこえ。このからだのなかに、会ったこともない人たちが生きる。人間というのは、なんて重層的で、広々としたものか。

思い出せずにいる、映画「アダマン号に乗って」最後の字幕。「人間、言葉、想像力」その文字だけを覚えていて、何て書いてあったのか、ずっと気になっていた。その伝えたかったことが、今は何となく分かる気がする。

図書館へ行った帰り道、小さな食料品店に立ち寄った。六時過ぎ、真っ暗の街に、オレンジ色の光がぽつんと灯る。店の表、大きな張り紙を見つけた。筆で描いた、たくましい文字。「SAVE GAZA」。何も語らなくても、お店の人とたくさん言葉をかわしたように、店を出た。