2024年6月14日(金)
ある日、新聞で、曙太郎さんとその内弟子の方の逸話が載っていた。曙さんは稽古では厳しかったが、ふたりでいるときはとても優しく、父のようだったこと。「関取になったときの名前ももう決めてある。『銀河』っていうんだ」稽古に励む弟子に、そう言葉をかけたこと。その方は、夢を叶えることができず、現在は別の分野の仕事をして働いている。けれど、その言葉がこれまでずっと自分を支えてくれた、と語っていた。
記事を読みながら、りんかくのなかった希望というものが、はっきりとかたちを持ったように思えた。あるか、ないか、わからない未来に「銀河」と名付け、それをあると確かに信じること。だれかがそれを一緒に信じてくれること。そうゆうものを希望と呼ぶのだろう。実際に、関取になっても、たとえなれなくても、それはどちらでもよいことで。夢見たのとちがった現実がきても、希望はなくならず、そこにありつづけるのだった。
ピアノを弾いていると、旦那さんが言う。技術がなくても、音数が少なくても、ちゃんと心に届くような、そうゆう演奏ができる可能性がある。大きくは、いいほうに行っているから、そっちのほうに行ってくださいよ。そのまなざしも、やっぱり、希望と思う。
環境問題についての映画をつくった、ある映画監督がこう言った。「人々は環境を破壊しながら大量生産を続けている今の暮らし以外の姿を想像することができないでいる。でも映画は人々の想像力をかき立て、それとは違った世界を想像する力を与えられる」
まだそこにないものを、想像することは難しい。けれど想像する力もまた人間は初めから持っていて、いくらでもゆたかにできるのだった。どんな世界も人生も想像することで、ありえるものになる。希望は、そこに。