聴きたかったことば

11月8日(日) あちこち掃除や片づけをする。こんがらがった頭の中を整えようと思って。

電話の向こう、何年ぶりだろう、とてもなつかしい声を聴いた。「友だちが送ってくれたのが、ゆりちゃんのおやつでさ、ものすごくびっくりしたよー」なんて。初めて会ったのは、ずいぶん昔で、八ヶ岳の山の上だった。長野に暮らしていた友人が、その人の家に連れていってくれた。そこで、オーラソーマというものを体験した。初めて耳にすることば。気に入った色のボトルを三つ選ぶと、そこにその人の、過去、現在、未来がうつされるそう。その人の話を聞きながら、だらだらと涙が止まらなかったことをよく覚えている。おそらくそれは、そのときのわたしが、必要としていたことばだったのだと思う。「もっと自由に表現したらいい」。会ったのはその数時間きりで、それから十年以上もたって、ひょっこりとお店にあらわれた。「いやー、ななちゃんに聞いたのよ」なんて言って。京都に住んでいるのでもないのに、それから何度か店に来てくれていた。そして、事情があってなかなか京都に来られなくなった、と聞いた。

夏のおわり、一冊の画集の中、青い樹の絵のとなり、こんな詩が添えてあった。

「何も語らず 自らの存在を静かに肯定するかのように 木が立っている」

だから、木は美しいのかと思った。肯定する、っていいなと思う。ニュースや情報として受け取るものが、批判めいたものに満ちているからかな。自分を肯定する、相手や周りを肯定する、世の中とか社会とか、そういう大きなものを肯定する、とはどういうことだろうかと考える。わたしはときどき、じぶんにがっかりしてしまうから。

この秋、新しいお隣さんがやってきて、新しいお店ができた。オープンの少し前、店先にできたての看板が立っていて、夕ぐれどき、ひとりでそっと眺めた。店名と並んで「自分を許せる場所」と書いてある。とても堂々と。店主の女性はそのわけを「最近自分を許せない人ばっかりですからね。まぁ、今までは、わたしが自分にいちばんきびしかったんですけどね。自分を許すことを娘たちが教えてくれたんです」と教えてくれた。お店の名前は、二人の娘さんの名前だった。

その人は、文明の発達はどこまでゆくのか。果たしてそれだけの便利さは、人間にとって必要なのか、というのが、わたしの今のテーマでね、なんて受話器ごしに話してくれた。それで、結局さ、相手を認める、尊重するってことができないとやってこないんだよね、平和っていうのは、こころの中に。そんなことばを聞いてわたしも、じぶんにとって今のテーマは肯定するってことだった、なんて話す。昔、マクロビオティックを勉強していたとき、あれはいい、これはダメと、考え方が二極化してしまって、どうにも苦しくなってしまったことがあった、本当はそういうことじゃなくて、その先はひとつなんだけどね、ぜんぶひとつなんだけどね。そんなとき、オーラソーマの創始者のひとのことばが自分を救ってくれたの、「否定するものは何もない」って。それを聞いて、思わず、ふるえてしまう。それから電話口で、あたまの中で、なんどもくりかえした。「否定するものは何もない」。ずっと聴きたかったことばを聞いたような気がした。十年前とおなじように。

日が傾いて、店にはピアノが静かにひびいて、おやつをつくっていると、あぁ、そうかと気づく。だれのどんな人生もそれでよくて、まちがってなどいなくて、後悔する必要なんてまったくないのだ。ここに、否定するものは何もない、としたら、生きてゆくことはなんて安心なことだろう、そう思った。とても満ち足りた気持ちで。そしたら、ずっと元気をなくしているあの人に、たまらなく教えてあげたくなった。