ひょろりと短い春大根を買う

2020年4月11日(土) ―こでまりのつぼみは、青い花火のよう。さみしかった大通りのイチョウの木には小さな青い葉が揺れていた。

朝、八百屋さんがきて、春大根を買う。と、もう一本どうぞ、と言ってくれる。春大根、春人参、春キャベツ。なんでも春がついてかわいい。

大根の葉っぱは、夜にちゃんと、ごま油で炒めておいた。ごはんにのせられるように。2月の頃、斜め向かいのお母さんが大根葉とじゃこの炒めたんをおすそ分けしてくれたとき「栄養いっぱいあるやろ、これ食べてたら病気にならへんわ、肺炎か、あれならへんで」と笑いながら言ってくれた。それはとても本当のこと、のような気がした。旬のものを料理して食べる。そして、よく寝て、よく笑うこと。心もからだもすこやかに保っていれば、病気もよってこないんじゃないだろうか。そう思いながら、日々がんばってごはんをつくっている。

近くのお寺の表、ちょっといいこと書いてあったで、と旦那さん。それで、買い物の途中、じっくり読んだ。いちばん困るのは、自分を自分として引き受けられないこと、だそうだ。自分を引き受けられる、というのは「わたしが、わたしで、これでよかった」と思えること。自分を引き受けられているだろうか、わたしは。

こういうとき、世の中がどう動いていくのか、トップの人はどういう判断をするのか、それに対して、人はどんなふうに動いていくのか、何も言わずに黙って、静かによく見ておきなさい、そして、自分の頭で考えて判断しなさい。こんなふうに母は言っていたよ、と魚安さんが教えてくれた。昔にもスペイン風邪という病気が大流行して、母はその時代を生きたはる人やからって。なんとなく、宮澤賢治の、雨ニモマケズ、みたい。自分を勘定に入れずに、世の中をよくみておくこと。

自粛だから本当は来ちゃいけないんですけどね、って、遠くの町から来てくださるお客さんがいた。実は元気をもらいに来ました、と笑う。こんな自分にわたせるものなんて、あるだろうかと思うけれど。沁みるようにうれしい言葉だった。

遠くの町の友人も来てくれた。元気でいましょうね、そして、楽しみます、と言っていた。控えないといけないことはたくさんあるけれど、どんなときにも楽しむってことや、どうしたら楽しめるか、考えるってことが大事なんだろうな。

お客さんが、にちさんずっと変わらず営業されますか? と聞いて、これがぼくたちの生活なんで、こうやって開けていないと落ちつかないんですよね、と旦那さんが言った。生活という、言葉の意味を考える。お店をあける意味は、お金のやりとり、だけじゃないんだろう。人とのやりとり、会話のやりとりがあって、いろいろな気持ちをもらう。元気をもらう。笑顔をもらう。なにか気づかせてもらう。それが生活ってことなんだろう、わが家にとって。