絹サヤの白いスカート

2020年4月4日(土) ―庭のライスフラワーが日に日に鮮やかなピンク色に色づいていく。絹サヤの花はひらひらと白いスカートのよう。

朝いちばん、近所のおじちゃんがクッキーを買いに来てくれる。顔を見た途端、奥さんはいつもいい笑顔やね、と言ってくれた。それで、とても安心した。大きなマスクをつけて店に立っていたから。目しかのぞいていなくても、ほほ笑んでいたら、ちゃんと伝わるのだな。

そういえば、思い出したけど、この前、畳屋のお母さん、珈琲を飲んでくれてな、ほめてくれはってん、と旦那さんが言う。もう何年になる? って聞いて、7年目です、って答えたら、たいしたもんや、って。続けることが大事やなって。どんなことも続けることが大事。

畳屋のお母さんは花を買いに来て、これからパン屋さん行くけど、ゆりちゃん何がいい? と聞いてくれる。せっかくあげるんやったら喜んでもらったほうがいいじゃない? と前もって希望を聞いてくれる。お惣菜パンがいいです、って答えたら、食パンは? とまた聞いてくれるので、思わず、お願いします、って答える。じゃ、お昼に間に合うように行ってきます、と店を出て、しばらくしたら、お待たせーと帰ってきた。

配達に行った先では、干し柿をもらう、とれたてのワカメをもらう、お礼にと、おやつをもらう、いちごをもらう、ハンカチをもらう。3時前になれば、お隣の電器屋のお母さん、おしるこしたから、とお盆にのせてあったかいのを届けてくれる。不思議で、おかしい。

今日は発送のおやつをつくっていた。つくりながら、これは祈りのようなものだ、と思った。神さまや仏さまに目をつむって手を合わせて、そうするみたいに。どこかの、だれかにとって、あのひとにとって、それが力となるように、おだやかな日々があるように、と手を動かす。おやつをつくっていても、お経を唱えていても、全然ちがうほかの仕事をしていても、みんな目的は一緒なのかもしれない。そんなことを考えていたら、ある詩の一節を思い出した。「ひとは 祈ることができるのだ」長田弘さんの、なんという詩だったろうか。

今日はおばあちゃんの命日です、と友人からのメール。そうか、と気づく。亡くなった人はお誕生日とご命日、ふたつ記念日をもらうんだな。

昨日は電話が鳴って、花屋のいちばん大きな仕事がなくなった。感染症の影響で、お世話になっていた宿泊施設が休館するかもしれないらしい。あぁ、おそれていたことが起きてしまった、としょんぼりする旦那さん。それでも夜には、これはひとつの方向転換するよい機会かもしれませんと、前を向いていた。前を向くって、大事だな。感染症が広まって、業種によっては大きな打撃を受けているのかなと思っていた。だけど、そうではないのかもしれない。どんな業種も、どんな仕事も、それ単独で存在しているわけではなくて、ちゃんとつながりあっている。感染症が広がるのもきっと、それだからなんだろう。家族や友人や同僚や、人と人がつながりあって社会が成り立っている。そんな当たり前のことをまた思ったりした。

次々と咲く、オルレアの白い花。花がらを摘みながら、いちばん目の花はもう終わって種をつくっているで。このひとはもう、自分のことじゃなくて、子孫のことを考えているやなぁ、と旦那さんが言う。